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堕ちる
それは夢のようなひと時だったと彼は前置きし、その時の様子を語ったのです。
手を腹の上で組み、リクライニングの効いた長い椅子に寝転がるように腰掛け、まるで眠っているかのように瞳を閉じ、ポツリポツリと彼が言葉を吐き出していくのを、私はただ黙って聞いているだけでした。
彼はその時、私という第三者を忘れ、彼自身と対話をしているように見えました。
***
俺が親友だと思っていた男に襲われたのは、高校の時だった。 詳しい年齢や日時は……情報としては知っているのに、言葉にしようとすると出てこない。実感を伴わないとでも言えばいいのか、とにかく高校生だったというのは確かで、まだ俺たちはお互いに若かったんだ。
「新一、今日事件は?」
「ばーろぉ、俺がここにいる時点で察しやがれ」
「つーことは、ねぇんだな。じゃ、ゲーセンでも寄ってオメーん家行こうぜ」
「ゲーセンはなしだ。俺はさっさと帰ってさっき買った本読みてぇんだよ」
「ったく。相変わらず本の虫め。じゃ、コンビニで妥協してやる」
「文句があるなら別に俺じゃなくたっていいだろ?なあ快斗?」
「うわ!そういうこと言うかこの性悪探偵」
「うっせぇバーロ」
ポンポンとテンポの良い会話を交わしつつ笑いながら駅から離れていく二人は、誰が見たって仲の良い友人、もしくは親友だと思うだろう。
俺だってそう思っていたし、快斗だってそう思っていると信じていた。
その日は金曜で、学校が異なる俺たちは、毎週末になるとよく泊りがけで遊んでいたから、快斗が泊まることに対してこれっぽっちの疑問も抱いていなかった。
俺は広い家にずっと一人暮らしをしているから、おふくろさんと住んでいる快斗がウチに来ることは、高校生という年齢を差し引いたって当然のことだと思う。
「なあ、夕飯どーする?」
「あー…ピザでよくねえか?」
「はぁ?こないだも取ったろ。うめぇけどいい加減飽きる」
「じゃあオメーが作れ」
「えー」
「ピザかオメーが作るか、選択肢は快斗に与えてやるよ」
「はいはい、知ってますよ、新一君が実は俺の手料理大好きなことも、いつもコンビニだから家庭の味に飢えてることも」
「るせー御託並べる前に作りやがれ!」
「残念だけど新一君?冷蔵庫の中身空っぽだぜ?つーわけで、買い物からだな」
「マジかよ…めんどくせぇ。財布渡すから快斗頼んだ」
「いやいや、そこの引きこもり探偵もホラ、行くぞ!」
そうやってスーパーに行くのはなんだかんだ楽しかった。おばちゃんたちに混ざって特売品に特攻したり、値引きシールの貼られた品物を吟味したり、鮮魚コーナーで快斗をからかったり。二人でぎゃあぎゃあ騒ぎながら買い物をするのは嫌いじゃない。
いつの間にかレジ袋が有料になってて、快斗がやけに悔しがったりして。買いすぎた荷物が重かったりとがってたりして、有料のレジ袋が破れて憤慨したり。そういうちょっとしたことが凄く楽しかった。
夕飯も終わってリビングのソファーでだらだらしていたら、快斗がニヤニヤしながらコンビニの袋を目の前にぶら下げた。
「…んだよ。もう食えねえぞ」
「いやいや、食えなくても飲めはするだろ?」
「…お前なあ」
快斗が袋から出したのは安いチューハイやカクテルの類とスナック菓子だった。
もちろんこの家にだって父親が選んだ酒は大量にあるが、高校生にはまだ早いというか、その当時はまだ味がわからなくて、ジュースみたいな酒を好んで飲んでいた。
今思うと、酒を飲むことが好きだったというより、背徳感を楽しんでいたと言ったほうが正しいのかもしれない。若気の至りってヤツなんだろう。
たった数本の缶で俺たちは見事に酔って。
そして
関係を持った。
気がついたら俺が女役だった。
酒臭くて、熱い唇が印象的で、それくらいしか思い出せない。
ローションなんて使った覚えはないけれど、不思議と痛みはなくて、圧迫感と息苦しさと、排泄に似た感触に戸惑ったくらいだった。
快感なんてなくて、ベッドに転がされて突かれながら聞こえたパンパンって音が、やけに滑稽だと思った。
朝、目が覚めると、昨夜の名残はそのままに、アイツだけが消えていた。
そしてそれから今まで、一度だって連絡は無い。
携帯のデータはそのまま残っているけど、俺から連絡したことも無いし、アイツからの着信も無い。
ちゃんと生きてるってのは知ってるけど、それくらいだ。
まるで夢のような出来事で、けど痕跡が夢じゃないと物語っていた。
快斗とのことがあってから、数ヵ月後、俺は幼馴染の蘭と関係を持った。ずっと大切にしていこうと思っていたし、実際俺にとって彼女は誰よりも大切な人だった。
けど結局俺は、蘭とすぐに破局し、それから何人かの女性と関係を持った。
何人目かの女性が、紅子だった。
彼女は快斗とつるんでいた頃からの顔見知りだったこともあって、すぐに俺たちは打ち解け、そして交際するようになった。
彼女は俺を愛してくれるし、俺も彼女を愛している。
俺は本当に幸せだった。
だが、よく考えてみろ。
紅子は快斗の知り合いで、高校時代は紅子は快斗のことをずっと好いていたんだ。
そのことで快斗から愚痴らしきものを聞いたこともある。
紅子は俺を誘惑し、もてあそぶために快斗が送り込んだんじゃないのか?
その可能性は十分にある。いや、そうに違いない。
ああ、そういえばあの時…中森警部に来るなと怒鳴られたのは快斗が裏で手を引いたからじゃないのか?あいつは俺が探偵をしているのにいつもいい顔をしていなかった。
この前俺が轢かれかけたのは…あの車、快斗が運転してたんじゃないのか?快斗が俺を狙って轢こうとしてきたんだ!!!
***
彼の症状は深刻でした。
一時は日本警察の救世主とまで呼ばれた彼が、ここまで豹変してしまうと誰が予想できたでしょう。
私は後日、偶然にも「快斗」氏とお会いする機会がありました。
「新一の診察をされているそうですね。残念ですがどんなに尽力されてもアイツは治りませんよ」
ニコリと笑った顔を、あんなにも恐ろしく感じたのはあの時が初めてです。
「だって新一は俺のことだけ考えてればいいんだから」
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